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上野遺跡

概要

上野遺跡は三重県の中西部に位置する久居市戸木町に所在します。

当地は南側を雲出川、東側を蛇川によって形成された河岸段丘上に立地し、その比高差は約15mを測ります。 雲出川周辺は当遺跡をはじめ多数の遺跡が集中しており、その範囲は左岸が久居市・津市、右岸が白山町・一志町・嬉野町・三雲町に跨っています。
また、右岸においては河川氾濫原の広がりが見られますが、左岸は切り通しの激しい河岸段丘を呈しています。当遺跡もその段丘上に位置する遺跡の一つに数えられ、縄文時代の遺物が出土したことや、古墳群(上野古墳群)の存在が古くから知られている複合遺跡です。左岸の段丘上には、当遺跡のほかに善応寺古墳群や庄田古墳群・元儀八山古墳群・戸木城・戸木遺跡・宮山城・小戸木遺跡・久居城・川方城・牧遺跡・木造城があり、これらの遺跡群の中で特に城跡に関しては当遺跡と同様に中世末の戦乱期を語る上で欠かすことのできない重要な遺跡であるといえます。
また等間隔に配置された個々の城郭は、雲出川の水運を管理し、その背景に広がる領地を統括していたことが十分に予測されます。

黒塚古墳

まとめ

大和古墳群の古墳を規模で大別すると、黒塚古墳は第2のグループに入る全長130mの前方後円墳です。
埋葬施設は大規模な墓壙内に作られた特徴のある構造の竪穴式石室であり、石室の内法の長さは約8.3mと最大級の規模をもっています。
石室床面は南小口付近の一部を除いて未盗掘であり、遺物の大半が原位置のまま残っていました。
鏡をはじめ、鉄製品などの種類や数量が豊富で、副葬品の配置の仕方、取り扱いの違いがよくわかります。まるでタイムカプセルのようです。
黒塚古墳の年代については、遺物を取りあげていないため、まだ結諭は得ていませんが、古墳時代前期前半の古墳であり、これまで調査してきた中では中山大塚古墳よりは新しく、下池山古墳よりは古いと考えています。

(以上は、大和古墳群調査委員会〈奈良県教育委員会文化財保存課、奈良県立橿原考古学研究所、天理市教育委員会〉による現地説明会資料より抜粋)

巨勢山古墳群

巨勢山室古墓

條ウル神古墳
巨勢山室古墓の調査

471号墳前方部側面を大きくカットして構築されており、一辺5mほどの墳丘を伴う、南東面する平安初期(桓武朝、9世紀初頭)の古墓です。
墳丘下にはいわゆる木炭木槨墓といわれる構造の主体部があり、まず、長さ3.4m、幅1.5mの大きな墓壙を穿ち、この中に木炭を敷き詰めた後、 長さ2.2m、幅1.Omの木槨を設置し、さらにその中に長さ2.Om、幅0.6mの木棺(いずれも外法)を収め、木槨を木炭で包んでいます。
棺内副葬品には金銅装短刀、刀子、水晶丸玉などがあり、木槨上には石帯(巡方4点、丸鞆5点、鉈尾1点)や碁石とみられる白石6点、黒石2 点などが撒かれていました。
また、墓壙を埋めた木炭内からは須恵器水瓶や土師器杯などが出土しています。なお、木槨には蝦錠が付き、木槨・木棺に用いられた鉄釘の数は100点を超えます。
以上から被葬者は、平安遷都で知られる桓武天皇に仕えた貴人であり、類例の少ない木炭木槨墓という手の込んだ構造の埋葬主体や副葬品の 豪華さは、被葬者がかなり高位にあったことを想定させます。
また、延暦15年(796年)以降、平安京への官人集住、すなわち「京貫」が徹底されるといわれますが、本古墓が大和で検出されたことについてどのように理解するのか、など多くの課題が提起されています。

條ウル神古墳の調査

大正5年(1916年)刊行の『奈良県史蹟勝地調査會第三回報告書』に、当時の奈良県技手 西崎辰之助によって「條ノ古墳」として報告された 本墳は、従来必ずしも正当に評価されてきたとはいえませんでした。 それは、墳長・石室・石棺の規模いずれもが、にわかには信じがたいほど大きなものであること、また、家形石棺の蓋側面の縄掛突起が通常2つずつで あるのに対し、略報では3つずつ計8つとされており、ほかにほとんど例がみられないことなど、資料としての信用性を疑問視する人が多かったからです。 その後、古墳と周辺地形が著しく改変される中で、古墳の所在そのものも判然としなくなっていましたので、このたびの調査は石室の所在と現状を確認 するために着手しました。 狭い盗掘孔が閉塞石部分にあって、そこから身体を擦りながら石室内に入って眼前に広がった世界は、まさに驚くべきものでした。西崎報告の通りの 巨大な石室と石棺が厳然とそこに存在したからです。
石室内には、かつて水がたまっていたことを示す成水層がまだ厚く堆積しているために、正確な数値はわかりませんが、現状での横穴式石室の玄室 規模と、そこに納められた家形石棺の大きさは表に示す通りです。條ウル神古墳の石室・石棺はその型式から6世紀後葉の築造とみられ、それぞれの 大きさの比較のため、ほぼ同時期の古墳も例示しておきましたが、いずれも石室・石棺とも最大もしくは最大級と呼ぶに相応しく、例えば、見瀬丸山 古墳は欽明天皇、石舞台古墳は蘇我馬子の墓とする説が有力です。
條ウル神古墳の場合には巨勢(許勢)氏の盟主をあてるのが妥当で、許勢臣稲持や比良夫ら数人が候補となるものと思われます。
なお、墳形については、今後の調査に待たねばなりませんが、確かに西崎報告の通り、100m級の前方後円墳となる可能性はあります。
このたびの調査はここまでで、現地説明会後すぐに埋め戻します。今後、機会を改めて墳形や内部主体の調査を実施したいと考えています。
(以上は、御所市教育委員会 現地説明会資料より抜粋させていただきました)

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